エゴは味方

エゴという言葉には悪意がこもっています。

エゴイストというと自分のことしか考えない独善的な鼻持ちならない人間というイメージを誰もが抱きます。

はたしてエゴは私たちの敵なのでしょうか?

スピリチュアル的な分野では、エゴが諸悪の根源で、エゴを叩きのめして消去しさえすればすべてがハッピーのような風潮です。

けれど、この世界に個人として生きるかぎり、個人としての人格、パーソナル・セルフとしての自我は必要不可欠であり、価値中立の意味での自我を消去しようとするのは廃人になろうとするのと同じような破滅的行為といえるでしょう。

明るい陽射しの日中に外に出て自分にできる影を消そうとして、影に対してどんなに働きかけてもまったく効果はありません。

けれど、立ち位置を変えることで影を小さくしたり消したりすることならできます。

さまざまな悪さをするエゴは、中立の自我に間違って光が当たってできた影のようなものであり、必要なのは、影でしかないエゴを消そうと虚しい悪あがきをすることではなく、光の当たり方の問題にフォーカスすることのはずです。

そして、たびたび出てくる人間馬車説で言えば、馬が馬車をけん引して目的地に向かうよう手綱を捌いて運転する御者が自我なのだから、自我を消し去ろうとするのは、馬車が馬車として機能するための最も重要な要を廃棄しようとする深刻な自滅行為ということになります。

大切な役割を担う自我として役目を果たさせるために必要なのは、影としてのエゴに転化することなく、御者としての自我の本分を忘れないよう主人のしもべとしての本分を忘れないよう自覚させて忠犬のように調教することです。

エゴは私たちの大親友

エゴが敵ではないとしたらどうなるでしょう? もしエゴを避けて抑圧すべきだという信念こそが問題だとしたら?

私は、何が何でもエゴは否定されなければならないという思い込みが、まったくの逆効果を生み出すことに気づいたのです。私自身がエゴのことで頭がいっぱいだったのは、いつもエゴに注意を向けてそれを否定し、窒息させ、抑制していたからでした。このことが様々なやり方で私自身を束縛し、本当の自分を表現できなくしていたのです。

けれど、自分を愛してエゴを受け入れ、それが物質世界にいるのに必要な部分だと理解すればするほど、エゴを超えた無限の自己――エゴを含みつつ、同時にそれを超越している自己――に気づくことが容易になってきたのです。
自分を愛すれば愛するほど、自分の権力を拡大したり自慢したりしてエゴを膨張させる必要が少なくなるとしたらどうでしょうか?

そして、本当に自分を愛するということが、エゴによる防衛や保護の必要を感じなくなり、他人に自分を愛してもらったり、エゴを喜ばせる行動をとってもらう必要が減るということを意味するとしたら?

少なくとも、私の人生にはそれが当てはまりました。私が自分を愛すれば愛するほど、エゴだけと同一化することが少なくなります。なぜなら、自分ははるかに大きな存在であること、エゴの有無にかかわらず存在していることを知っているからです。

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アニータ・ムアジャーニ(「もしここが天国だったら?」206ページ)

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